ゾフィーが扉をノックする。
「ユーリエ、天啓者がいらっしゃいましたよ」
そう言ってからゾフィーは扉を開けると、長くなりすぎないようにとくぎを刺し、リートを中に促した。
入った瞬間、リートは拍子抜けした。
なんとも無機質で殺風景な部屋だ。
リートが想像していたような、レースの遮光幕とか天蓋付きの寝台とか、可愛いぬいぐるみとか、そんなものはなにひとつなかった。
そもそもこの部屋には、個性と呼べるものが存在していない。机と椅子と寝台と、衣装箪笥。あるのはそれだけだ。その造りも、エミリアの部屋にあるような豪華なものとはほど遠く、女性が使うには質素すぎるし、あまりにも地味だった。
これではまるで病室だと、リートは憤りを隠せなかった。たとえユーリエがなにも言わないのだとしても、ゾフィーはもっと彼女の身のまわりに気を使うべきだ。
「リート様」
寝台から起き上がろうとしたユーリエを、リートは慌てて止めた。
「寝てていいよ。僕が勝手に来たんだし」
「でも」
「いいってば。それより具合はどう?」
再び寝台に横たわりながら、ユーリエが小さな声で言った。
「だいぶよくなりました。もともと少し熱が出ただけですから」
「そう。よかった」
リートがそう言ったあと、なぜかユーリエは黙ってしまった。
「ど、どうしたの?」
なにかまずいことでも言ってしまったのだろうか。リートが不安に思って問いかけると、ユーリエはうつむいたまま答えた。
「こういうときに、どうしたらいいのかよくわからなくて」
「あー、それは僕もよくわからない……」
だいたい、リートは自分と同世代の人間を見舞うのは初めてだった。しかも急遽決めたことだったので、見舞いの品も持ってきていない。
(なにか忘れてるなとは思ったけど、やっぱり僕って礼儀知らずだな……)
ここに着くまでのあいだ、自分はただユーリエに会うことしか考えていなかった。
「どうして観に行かれなかったんですか? 楽しみにしていらっしゃったのでは」
「それは」
リートは思っていたことを言おうとして、はたと気づいた。
君がいないとつまらない。
これではまるで、ユーリエを口説いているみたいだ。友達にかけるのにおおよそ相応しい言葉とは言えない。ユーリエはおそらくまったく気にしないだろうが、自分は言ってしまったあとで、思い返すたびに恥ずかしくて、居た堪れなくなるに違いない。
ミヒャエルに、おかえりと言ってしまったときでさえ恥ずかしかったのに。
「あー、そうだけど、いいんだ。だってみんなと観てても、ユーリエのことが気になって楽しめなかったから」
「それは申し訳ありません」
律儀に頭を下げるユーリエに、リートは慌てて言った。
「違うよ。君のせいとか、そういうことじゃなくて。ただ、僕は君と劇を観たかったんだよ。それだけのことだ」
ユーリエがわずかに目を瞠る。
「……わたしと?」
「うん」
リートはうなずいた。
そうだ。自分はどうしても、ユーリエと劇を見たかった。それが叶わなかったから、こんなにもやもやした気持ちでいる。気持ちが晴れずにいる。
そんなことに、リートは今になってようやく気づいた。だから自分はこんなにもがっかりしていたのだ。
「だからいいんだ。続きなら、あとでほかの人に聞けばいいんだから。ミリィ様は話上手だし、ルイスの記憶力は完璧だからね」
そう言って、リートはユーリエに向き直った。
「それより、少しだけ話をしようよ」
そうだ。だから自分はここに来た。
彼女と話がしたかったから。
「前から思ってたんだけど、ユーリエはどうやって力を使ってるの?」
リートの質問に、ユーリエがわずかに首を傾げる。
「どうやってとは?」
「うーん、呪文とか道具も使わないみたいだし、なにか理論があるわけでもなさそうだし」
「わたしの使う力には、難しい理屈も道具も必要ありません。ただリヒトに願うだけですから」
「そうなの?」
ユーリエの返答にリートは拍子抜けする思いだった。てっきり難しい理論を学んで、何度も練習しないと使えないのだとばかり思っていた。
リヒトの力は科学の原理とはまったく異質なもののようだ。
「わたしはヴォルヴァとして力を行使することを許されてはいますが、その力はもともとはリヒトのものなのです。わたし自身に特別な力が備わっているわけではありません」
「そうなんだ」
要するに、彼女はリヒトの力を利用することができるだけなのだ。
リートは、物語に登場する魔法使いのように、ユーリエの精神力みたいなものが力になっているのだと漠然と想像していたが、どうもそうではないようだった。
「じゃあ、力を使いすぎて倒れることはないんだね?」
「わたしの体力と集中力が続くかぎりは」
まるで運動選手みたいだなと思いながら、リートはユーリエの話を聞いていた。
科学技術は、自然にあるものに人が手を加えて変形させることで目的を実現させるが、ユーリエの場合、必要になるのは自らの意志だけらしい。
「メルヒオルは、エヴェリーンはほかのヴォルヴァより力があるって言ってたけど」
「それは、彼女が普通のヴォルヴァよりも大きな力を使うことが許されているという意味です。リヒトはそれだけ彼女を信頼していたのでしょう」
「じゃあ、君が望めばなんでも願いが叶うの?」
結界が張ってあるにもかかわらず、リートは小声で訊いた。
なぜかはわからないが、世界中のだれもが自分たちの会話に耳を傾けている。そんな気がしたのだ。
ユーリエが小さく首を振る。
「いいえ、そういうわけではありません。リヒトは心から真摯に願えば必ず応えてくださいますが、それが自分の欲望からくるものであれば沈黙し、決して応えてはくれません」
「リヒトにはその違いがわかるの?」
ユーリエが今度は深くうなずいた。
「必ず」
ユーリエの薄紫色の瞳を見ながら、リートはふと思った。
ならば、なぜエヴェリーンは力を暴走させることができたのだろう、と。
しかしリートはそれについては考えず、また質問することにした。まだ訊きたいことがたくさんあった。
「じゃあ、ユーリエが願えば、僕はこれをつけなくても、この国の言葉を話せるようにはならないの?」
リートが耳に着けたピアスを指しながらそう訊ねると、ユーリエは首を振った。
「リヒトの力は、人の能力や意思には決して干渉できません」
「なにかの技術を身につけたり、なにか特殊な能力を得たり、人の心を操ったりするのは不可能だってこと?」
「はい」
「身体には干渉できるのに?」
リートはピアスをつけるときに痛覚を麻痺させられたし、身体の自由も奪われた。怪我の治療もしてもらった。
「できますが、特定の場合だけです。危害を加えることはできません」
「そうなんだ」
「だからこそ、エヴェリーン様はそういった道具を作られたのです。すべて個人的な趣味だったようですが」
趣味でこんな道具を作るなんて、エヴェリーンは自分と同じくらい変わり者だったのかもしれない。なぜかリートはそんなことを思った。
庭園から少し奥に入ったところにある木立の中を歩きながら、エミリアは傍らにいるミヒャエルを興味深げに見つめた。
「なるほど、こういう手口であなたは相手の心を掴んじゃうわけね」
「人聞きの悪い言い方だな」
ミヒャエルが苦笑すると、エミリアがふふっと笑った。
「あら、褒めてるのに。でもそうよね。こうやって意中の相手に連れ出されたら、だれだってときめいちゃう」
「それは君でも?」
エミリアはそれには答えず、ミヒャエルをじっと見た。
「あなたに訊きたいことがあるんだけど」
「なにかな」
「あなたは本気で恋をしたことがある?」
返事はすぐには帰ってこなかった。
その時を思い出しているように、ミヒャエルの目がそっと伏せられる。
「……一度だけ」
エミリアの空色の瞳が好奇心に輝く。
「だれかしら。わたしの知ってる人?」
「会ってはいるだろうな。同じ貴族だから」
エミリアが考え込む表情になる。
「あなたが好きになりそうな人って、想像がつかないわ。とりあえず、わたしとは真逆でしょうね。大人しくて控えめで、楚々としていて、天使みたいな……」
エミリアがそう言うと、ミヒャエルが吹き出した。
「なあに、大外れ?」
「いや、当たらずとも遠からずだな。見かけはそうだったが……彼女はとても頑固で、意地っ張りで、わたしはいつも彼女に振り回されていた」
「あなたが? 意外ね」
エミリアは目を丸くしてミヒャエルを見つめた。
「だからよかったんだ。そんなふうにわたしに接してきたのは彼女だけだった。それが楽しかった」
「わたしといるときはどう? あなたはいろいろな人とつき合ってきたんでしょう?」
「彼女たちと君はまったく違うよ」
「でも、それじゃつまらないんじゃない? わたしは駆け引きもできないし、子どもっぽいし、色気もないし――」
ミヒャエルはその場に跪くと、エミリアの手袋をした手を取り、口づけする仕草
をした。エミリアを見上げ、優雅に微笑む。
「お望みなら教えようか」
エミリアがなにも答えずにいると、ミヒャエルがすぐに手を放し、立ち上がった。
「いや、よそう。わたしはそういう君といるほうが楽なんだ」
そう言って微笑むミヒャエルに、エミリアは首を傾げた。
「それは、あなたにとっていいことなのかしら」
「さあ、どうだろう」
ミヒャエルははぐらかし、エミリアをじっと見た。その様子はまるで、黙秘を貫く容疑者から自供を引き出そうとしているときのようだった。
エミリアは真っ向からその視線を受け止めた。
「……なに?」
「君はいつまでこの芝居を続けるんだ? 君自身が愛されることはないのに」
「愛されることだけがすべてじゃないでしょう。ほかにも大事なことはたくさんある」
「世の中には、だれからも愛されない人間もいる」
ミヒャエルが静かに言うと、エミリアが微かにうなずいた。
「そうかもしれない。でも、必死になって愛を求めても、待っているのは悲劇よ。いつも心のどこかで怯えていなきゃならない。本当の意味で心安らげる日は永遠に来ない。教典にもそう書いてあるわ」
答えながら、エミリアが怪訝そうな表情になる。
「どうしたの、ミヒャエル。あなたなんだか変よ」
しかし、ミヒャエルは木立の辺りを見つめたままなにも答えなかった。
「ミヒャエル?」
エミリアはミヒャエルの顔をよく見ようとして近づいた。その瞬間、ミヒャエルがエミリアの腕を掴み、身体を自分のほうに引き寄せた。
「そういえば、あの時の返事を聞いていなかったな」
「……なんの時?」
エミリアは騒ぐこともなく、内心の動揺を押し隠した声で訊ねた。
「君に口づけしてもいいかって訊いたとき」
エミリアの腰に手を回し、ミヒャエルが耳元で囁いた。
低く甘やかな声が、エミリアの耳朶をくすぐる。
「……あの時の答えを知りたい」
ミヒャエルがそっと顔を近づける。魅入られたようにエミリアは動きを止めた。
舞台では第二幕が佳境を迎えていた。
ユストゥスとエヴェリーンが舞台の中央で向かい合い、お互いの気持ちをぶつけ合っていた。
「なら一つだけ教えてほしい。君はわたしが嫌いなのか、エヴェリーン」
「いいえ、嫌いじゃないわ。いつだってわたしの心はあなたを求めている。でも選んだ瞬間から、わたしは今までの自分ではいられなくなる」
エヴェリーンが切なげな表情でユストゥスにそう訴える。
「加護は消え、なんの道標もなく荒野に独り放り出されたような気持ちになる。それがとても恐ろしい。なにかを選ぶということ、それ自体がわたしにとっては罪にほかならない」
ユストゥスが静かに首を振る。
「なにも選ばないなんて不可能だ。選んでいないというなら、それはだれかの意思に動かされているだけにすぎない。自分の意思に従うことが生きているということだ」
ユストゥスがエヴェリーンにすっと手を差し出す。
「それでも怖いというなら、わたしを信じればいい。君が言ったんだ、大切なのは自分を信じることだと」
ユストゥスがそう言うと、エヴェリーンが悲しげに顔を伏せた。
「あなたは恐れを知らなすぎる。でも、だからわたしは」
エヴェリーンがゆっくりとユストゥスに向かって手を伸ばす。二人の手がもう少しで触れるというその時だった。舞台の背後でドン! という音がしたかと思うと、白い煙が辺り一帯に立ち込めた。周囲で悲鳴が上げる。
観客たちは恐慌状態になり、一刻も早く会場から離れようと逃げ惑った。
今にも二人の唇が重なろうという瞬間だった。
辺りに爆発音が轟き、エミリアはさっとミヒャエルから離れた。
「なに?」
先ほどとは打って変わり、ミヒャエルはもうハーナルの騎士としての顔になっていた。緊張した表情でエミリアを見つめる。
「……戻ろう」
花火が爆ぜたような音だった。
なんの音だろう?
庭のほうから聞こえてきたような気がしたが、リートはあまり気にとめなかった。
今は劇の上演の真っ最中だ。舞台の演出の一環だろうか。
その時、隣でユーリエが突然はっとした表情になった。
「聖殿にだれかが」
「え?」
「行かなくては」
そう言うやいなや、寝間着のまま寝台を降りたユーリエを見て、リートは慌てた。
「ちょっと待って、ユーリエ!」
しかし、ユーリエは聞いていなかった。急いで部屋を出ていくユーリエのあとを、リートは慌てて追いかけた。
