第59話 刺客

その夜、独房の中で、ノルベルトは自分の身柄が司法省に引き渡されないと知って、計算通りだと内心でほくそ笑んでいた。
 ハーナルの連中は悔しがるだろうが、自分を欲しがる議員は何人もいるはずだとノルベルトは確信していた。
 巡回にやって来た看守の足音が止まったので、ノルベルトは不審に思って身を起こしたが、すぐに固まった。看守が立ち止まったのは、自分の独房の前だった。いや、看守ではないとノルベルトは直観した。この男は制服を着ているだけの部外者だ。男が錠を外し、扉を開けて中に入ってくる。
「なんだよ、僕の口封じに来たのか?」
 ノルベルトは床にすわったままの姿勢で、あえて冷静な口調でそう言った。どうせろうにいる自分に逃げ場所はない。おびえてあと退ずさるような醜態は見せたくなかったし、そんなことをしても無駄だとノルベルトはわかっていた。
「はっきり言えよ。だれの差し金でここに来た」
 声が聞こえてきたのはその時だった。
「やめろ」
 男がはっと振り返ったが遅かった。ハーナルの騎士たちが短刀を手に男を取り囲んでいた。男は逃げようとしたが、数人がかりでハーナルの騎士たちが男を押さえつけた。
 まだ格闘している騎士たちを尻目に、端正な顔が独房の中をのぞんだ。
「精神状態はともかく、身体は無事なようだな」
 ノルベルトはぼうぜんとミヒャエルを見つめた。
「……どうして」
「おまえが出資者を募集しているという話を議員たちに流したんだ。そこでおまえは突如として人気者になってしまったというわけだ。これは争奪戦第一弾というところかな」
 ミヒャエルが笑顔でそう言うと、ノルベルトが目を見開いた
「それで僕は拉致されそうになったってわけ? 君たちは僕がどうなってもいいの? 僕になにかあったら君の責任問題だと思うけど」
「残念だが、ハーナルはそんな人道的な組織じゃない。訊きたいことはすべて聞いたから、おまえの将来がどうなろうとわたしたちの知ったことじゃない。おまえがこの国がどうなってもいいと思っているのと同じだ」
「事前にこうなるとわかっていたなら、どうして警備を強化しなかったんだよ」
「あえてそうしたんだ。おまえが反省していないようだったから」
 ミヒャエルがにこりと笑う。
「これでわかっただろう。この世界では才能があっても力のある人間には逆らえない。おまえが研究に没頭できるのも出資者の財力があってこそ。それが現実だ。守ってほしければ、その尊大な態度は改めたほうがいい」
「……君って性格悪いんだね」
 ノルベルトがそう言ってミヒャエルをにらんだが、ミヒャエルは意に介した様子もなかった。
「褒めてくれてありがとう。犯罪者より性格が悪くなければ、ハーナルの騎士は務まらないのでね。そうだ、言い忘れていたが、ノルベルト・エプシュタインというのは偽名のようだな。君の本名はノルベルト・フォン・マイヤー。れっきとした貴族だ。君の父親は高名な学者で、君自身も大学を出てる」
 それを聞いた途端、ノルベルトの目にしの敵意が浮かんだ。
「それがどうしたっていうんだ。僕はもうとっくに成人してる。親のことは関係ない」
「君はそうかもしれないが、この件が公になれば、君のご両親は批判の矢面に立たされるだろうな。関係ない人間を巻き込みたくなければ、わたしたちに大人しく協力したほうがいい」
 ノルベルトが吐き捨てるように言う。
「言われなくてもそうするさ。でも、それは両親のためじゃない。僕自身のためだ。育ててくれた恩なんて、僕は一度も感じたことがないからね」

「失礼します」
「どうだった」
 ミヒャエルが部屋に入ると、リューディガーが顔を上げもせず、出し抜けに言った。
 いつものことだったので、ミヒャエルは特に気にしなかった。
 いちいち態度が無礼だなんだと気にしていては、ハーナルでは仕事にならない。
 それに、注意したところでこの上司は気にもとめないだろう。
 リューディガーが求めているのは結果のみで、礼儀や礼節ではない。
「気に入らない様子でしたが、これでハーナルに逆らうことはないかと」
 ミヒャエルがそう答えると、リューディガーが厳しい表情はそのままに、口元だけをわずかに上げた。
「それでいい。つけ上がってもらっては、こちらの思い通りにならないからな」
 仮にも治安を守る側に立つ人間の言うこととは思えなかったが、ミヒャエルはなにも言わなかった。
 リューディガーは人格者ではない。だからこそミヒャエルは彼を信用していた。
 清廉潔白なやり方だけでは、到底犯罪者と渡り合うことはできない。リューディガーにはそれだけの覚悟がある。だからときどき理不尽なことを言われても、ミヒャエルは反論せず従ってきた。
 だが、彼が本当の自分を知ったらなんと言うだろう。
 自分はリューディガーの信頼を裏切っている。いずれそう遠くないうちに話さなければならないとわかっていたが、ミヒャエルはまだその覚悟ができずにいた。
 葛藤を振り払うように、ミヒャエルはまた口を開いた。
「しかし、本気ですか。取り引きする代わりにハーナルで彼の身柄を預かるとは」
「本気だ。ハインリヒの了承は得た。金のことしか考えていない成金貴族や、犯罪者どもの手に渡るくらいなら、ハーナルの管理下に置いて働かせる。社会貢献のためにその能力を使えば罪を償うことにもなるし、一石二鳥だ。ただ牢屋につないでおくよりよほどいい」
 ミヒャエルはため息をつき、額に手を当てた。
「神聖派の議員が知ったらなんと言うか――」
 リューディガーがふんと鼻を鳴らす。
「物事を善悪で決めることしかできない連中に非難されたところで、痛くもかゆくもない。わたしは仕事が円滑に進むなら、王権派だろうが神聖派だろうがどちらにでも付くし、最低限の倫理に反しなければ、どんな手段も使う」
 リューディガーがミヒャエルに鋭い視線を向ける。
「奴は科学技術について熟知している。これから同じような犯罪が起こらないともかぎらない。そのためには、奴のような専門知にけた人間が必要だ」
「承知しています」
「それより、アルベリヒに動きはないのか?」
「監視していますが、不審な行動を取ったという報告はありません」
「不審ではない行動は?」
「修復中のルーデル大聖堂を毎日見に出かけているようですが、それだけのようです。人と接触を図ったこともありません」
「どう考えても現場不在証明作りだな。しかし、王宮にだれか内通者がいるのだとしても、この状況でどうやってルイスの婚約者を襲う? わたしが奴なら、わざわざ殺害予告などせずに殺すが」
「アルベリヒは殺すとははっきり言いませんでした。命はそう長くないとほのめかしただけです」
 リューディガーがいまいましげに舌打ちする。
「そうだ。だから我々は表立って動けない。だが、それが奴らの狙いのように感じる」
 そう言って、険しい顔で考え込むリューディガーの横顔を見つめながら、ミヒャエルは頭の中では別のことを考えていた。
 言うべきか、言わざるべきか。しかし、これは個人的なことだ。
 その時、不意にリューディガーが鋭い視線を向けたので、ミヒャエルははっとした。
「さっきからどうした? なにか言いたいことでもあるのか」
 ミヒャエルは静かに首を振った。
「いえ、なんでもありません。……少し疲れているだけです」