足音がだんだん近づいてくる。
「ミヒャエル!」
扉を蹴破るかのような勢いで現れた長身の人影に、ミヒャエルが笑いかけた。
「遅いぞ、ルイス」
ルイスはこれ以上ないほど険しい目つきでミヒャエルを睨んでいた。
少年のように凛とした眉は吊り上がり、口元は真一文字に引き結ばれている。
ルイスは一言も発さなかったが、その周りからは抑えられない激しい感情が発達した積乱雲のように渦巻いていた。
嵐だ。リートはそう思った。
ふと開いたままの扉に目を向けると、いつの間にか着替えて戻ってきたガブリエレが扇子で口元を覆い、リートたちの様子をそこからじっと窺っていた。
しかし、対するミヒャエルは動揺した様子をまったく見せなかった。
嵐が部屋を直撃しているにも関わらず、彼ははまるでなにも起きていないかのような態度で優雅にカップを傾けてお茶を一口飲むと、挑発するようにルイスに微笑んだ。
「わたしをメルヒオルのところに連行する気か?」
しかし、ルイスはそれには答えなかった。青に金の虹彩が散った瞳がまっすぐにミヒャエルに向けられる。
「言いたいことは山ほどあるが、おまえとの話はあとだ、ミヒャエル」
だからさっさと出ていけ。そう言わんばかりのルイスの態度に、ミヒャエルが肩を竦める。
「どうぞ、好きなだけ二人で話してくれ。わたしは席を外そう」
ミヒャエルはひらりと椅子から立ち上がると、ガブリエレを伴って部屋を出た。
扉が閉まり、二人が階段を下りていく音が消えると、部屋に静寂が訪れた。
どうしよう。
リートは不安になった。
人と喧嘩して仲直りしたことなんて一度もない。どう切り出せばいいのかわからない。
そもそも、謝ってルイスは許してくれるのだろうか?
彼は自分の行動に呆れているに違いない。
だが、リートには自分だけが悪いのではないという意地もあった。
リートがそんなことを思っていると、いきなりルイスがリートの前に跪いた。
「すまない、リート。わたしとメルヒオルが間違っていた」
リートはなにも言えなかった。
自分がいなくなったからといって、いきなり態度を変えるのは調子がよすぎる。
謝るならだれだってできる。
謝るだけなら。
「君がミヒャエルについていったと聞いて、メルヒオルは方針を変えた。これからは政治に関する質問にもできるだけ答えると」
「なんで」
リートは突然の方針転換に戸惑った。
そんなに自分の行動はメルヒオルに都合の悪いものだったのだろうか。
「情報を与えないほうが君に悪影響があると判断したからだ」
「僕が? どうして?」
「それは、その」
ルイスが珍しく言い淀んだので、リートは当惑した。メルヒオルはそんなに酷いことを言っていたのだろうか。
「……なんて言ってたの?」
ルイスが軽く咳払いしてからおもむろに口を開いた。
「君は知りたいことがわからない状態で生活することを強いられると、極度の不安に襲われ、制限を加えられると反発する。そして情報を得るためなら見境がなくなる。それがメルヒオルの分析だ」
リートは話を聞きながら、ずいぶんな言われようだと思った。
だって、なにも情報がないなんて耐えられない。
ほかの人間はそうではないのだろうか。正確な判断ができないことほど恐ろしいことはないはずだ。だが一方では、確かにメルヒオルの言うとおりかもしれないとリートは思った。
――特に、知りたいことのためなら見境がないというあたりは。
「ご、ごめん……」
リートが謝ると、ルイスが首を振った。
「違う。さっきも言ったが、悪いのは知ることを制限していたわたしたちのほうだ。君が言ったとおり、君の判断能力を疑っていたんだ。許してほしい」
ルイスの言葉を聞きながら、リートはしだいにわだかまりが解けていくのを感じていた。
「それは仕方ないよ。僕だってメルヒオルの立場だったらそうすると思う。僕はこの世界のことをたいして知らないし、まだ子どもで世間知らずだし。悪い人間に利用されるかもしれないもんね」
ミヒャエルはただの芝居だったが、実際に誘拐されていたら、今頃大変なことになっていたかもしれない。
「でも僕、この国の政治がどうなってるのかに興味はあるけど、権力を持つことには興味ないよ。人に支配されるのも、支配するのもいやだから」
リートは権威に興味はなかったが、権力を行使することにはもっと興味がなかった。
そんなものがあったところで、不自由になるだけだ。
「……こうやって、冷静に説明すればよかったんだよね」
リートはぽつりと言った。
「自分でもよくわかんないけど、あの時はイライラしちゃって。たぶん、君は僕のことをもっとわかってくれてるって、勝手に思ってたんだ」
ルイスが静かに首を振る。
「いや、悪いのはわたしだ。任務を遂行することばかり考えて、君の話をきちんと聞いていなかった」
リートは不思議に思った。向こうの世界で、こんなふうに年上の人間から謝られたことはなかった。なぜ彼は、すぐに自分が悪いと思ったら正直に謝れるのだろう。
そんな人間は、リートの国にはほとんどいない。だれもが相手の顔色を窺って、その場を収めるためだけに謝罪の言葉を口にした。
謝罪することが自分の負けを認めることだと思っている人間も多い。
なぜ彼はいつも誠実さを失わずにいられるのだろう。
リートは少し迷いながら言った。
「ミヒャエルに聞いたけど、王権派も神聖派も権威が好きなんでしょ? 僕なんてなにもできない居候なのに、真っ先に槍玉に挙がるんじゃないの?」
「大丈夫だ。君は心配しなくていい。メルヒオルがいるかぎり、ハインリヒも君には手出しできない」
「なんでハインリヒはそんなにメルヒオルを嫌ってるの?」
そういえば、それをミヒャエルに訊くのを忘れていた。
リートが初めて会ったときも、メルヒオルは終始にこやかに応対していたが、それに対するハインリヒの受け答えは冷たかったし、ほとんどメルヒオルの顔を見なかった。
ルイスは考え込むような表情になったが、すぐに小さく首を振った。
「わたしにはそういうことはよくわからない。だが昔からそうだ。彼は事ある毎にメルヒオルを失脚させようとする」
「ふうん」
「だが大丈夫だ。ハインリヒの企みが成功したことは今まで一度もない。追い詰めても、最後はいつも失敗に終わる」
だが今まではそうでも、これからのことはわからないのではないか。
ルイスの自信に満ちた言葉を聞きながらリートはそう思ったが、もう彼と喧嘩はしたくなかったので言わないでおいた。
その時、ノックの音がして扉が開いた。
戸口にはミヒャエルの姿があった。
「話はついたか?」
「ああ。席を外してくれたことについては礼を言う」
ルイスはそう言うと立ち上がり、ミヒャエルの目をまっすぐに見つめた。
「だが、おまえがリートの不安につけ込んで誘拐した事実が変わるわけではない。わたしはおまえのしたことを許していないし、これからも許すつもりはない」
ミヒャエルがふっと笑って視線を外した。
「べつにかまわないさ。許されるとも思っていないからな。だがおまえは来るのが遅い。正直、この屋敷の周りをソリンの騎士に取り囲まれるんじゃないかと思ってひやひやした」
ルイスがむっとした表情になる。
「そんなことはしない。メルヒオルとの話が終わってすぐに、グラニとここに来たんだ。こんな書き置きを残されれば、だれだってすぐに駆けつけたくなる」
そう言うと、ルイスが懐から折り畳まれた紙片を取り出した。それは、リートがミヒャエルに書いてほしいと頼んだ手紙だった。
ミヒャエルがまるで歌を口ずさむような調子で言葉を紡ぐ。
「君のリートは預かった。取り返したければ我が屋敷まで来られたし。我ながらいい悪役台詞だろう?」
「そんなことを書いたの?」
リートが少し呆れながら言うと、ミヒャエルがふふっと笑った。
「言っただろう? わたしはこういうことが好きなんだよ」
「ミヒャエル。わたしはおまえを信用したわけではない。今度こんな真似をしたら、メルヒオルを通して正式にハーナルに抗議させてもらう。今後の言動には気をつけろ」
ルイスが厳しい顔つきで言うと、ミヒャエルが肩を竦めた。
「過保護だな、と言いたいところだが仕方ない。今後勝手な真似はしないと約束しよう。おまえとメルヒオルを敵に回すのは、わたしとしても避けたいしな。だが……」
ミヒャエルはそこでいったん言葉を切ると、ルイスとの間合いを詰めた。
お互いの息がかかりそうな距離で、二人は見つめ合っていた。
「おまえのほうこそ、彼が愛想を尽かしてわたしのところに来ないように気をつけたほうがいい。わたしの目から見れば、おまえは欠点だらけだ。臨機応変さに欠けるし、頑迷で、頑固で、恐ろしく融通が利かない。おまけにわからず屋で、真面目なことくらいしか取り柄がない。しかもそのことに自覚がない」
しかし、これだけ欠点を列挙されても、ルイスは眉ひとつ動かさなかった。
青に金の虹彩が散った瞳が、薄いグレーの瞳を真っ向から見返す。その瞳はどこまでも凛としていて、だれにも曲げることのできない意志の強さを感じさせた。
「おまえの指図は受けない」
ミヒャエルはうんざりしたようにため息をついて、ルイスから離れた。
「べつにいいさ。残念ながら、わたしは彼に振られてしまったからな」
ミヒャエルがおどけた口調で言うと、ルイスがわずかに眉を上げた。
「それはどういう意味だ」
「リートはわたしより、おまえのほうがいいそうだ」
「なっ」
ミヒャエルがさらりとそんなことを言うので、リートはぎょっとした。
「いろいろ聞かせてもらったぞ。彼がおまえをどう思ってるのかとかな」
「ちょっと、変な言い方しないでよ、ミヒャエル」
リートが焦って言うと、またルイスが険しい顔つきになった。
「ミヒャエル、いったいリートとなんの話をしていたんだ。やはりおまえを一度メルヒオルのところに連行して聴取を――」
「だからもういいって、そういうのは……」
言いながら、リートは頭を抱えた。
これでは振り出しに戻ってしまう。
「ルイス。僕は君が騎士でいいと思ってるから」
リートは、絶対にルイスのほうを見ないようにしながらそう言った。
こういうことを言うのは照れるが仕方がない。
「僕は、君のことを信用してるから」
自分がこんなことを言うようになるなんて、なんだか変な感じだった。
だが、その気持ちに嘘偽りはない。
ルイスは深く感じ入ったように一瞬目を見開いたが、不意にふっと微笑んだ。
「ありがとう、リート。君がそう言ってくれて嬉しい」
彼の笑顔をまともに受けてしまい、リートはなんとなく落ち着かない気持ちでまた視線を逸らした。
「そ、そんなに感動しないでよ……恥ずかしいから」
「確かに恥ずかしいな」
ミヒャエルが腕を組んだ姿勢で深くうなずくと、ルイスが不思議そうに首を傾げた。
「なぜだ?」
いつも、ルイスは自分の気持ちを伝えることにためらいがない。自分に素直で正直だ。
だがミヒャエルの言ったように、頑なでわからず屋でもある。
彼のことは、未だによくわからない。
リートはそう思った。
「ねえ、ミヒャエル。また会って話せるよね?」
帰り際、リートはミヒャエルにそう言った。
「ルイスは僕の護衛だから騎士が二人ってわけにはいかないけど、遊びに来るぶんにはかまわないでしょ?」
「それは願ってもないことだが、いいのか?」
ミヒャエルの後半の言葉はルイスに向けられていたが、ルイスは横を向いたまま目を合わせようとしなかった。
「リートがそう言ってるんだ。もし断るなら」
「わかった、そうしよう。でないと呼ばれるたびに無理やりおまえに連行されそうだ」
ミヒャエルは苦笑してリートを見つめた。グレーの瞳が一瞬きらりと光る。
「君は面白いな、リート」
リートは半信半疑な気持ちでミヒャエルを見た。
「……そうかな」
向こうの世界で面白いと言われたことは一度もなかったし、自分で自分を面白いと思ったこともなかった。
ミヒャエルが穏やかに微笑む。
「大丈夫だ。心配しなくても、君とはまた宴で会える。王女にもよろしく伝えておいてくれ」
リートは宴のことも、彼がエミリアの婚約者に内定していることも、すっかり忘れていたことに気づいた。
「わかった。じゃあまた」
「ああ、また」
「ルイス、やっぱり僕には彼が悪い人間だとは思えない」
帰りの馬車の中でリートはルイスに話しかけた。
ちなみに御者はヴェルナーだ。ルイスは彼に自分のあとを追いかけるように指示していたらしい。ルイスのグラニはミヒャエルが預かることになっていた。
「そうか」
「うん」
「彼をどう思うかは、リートが決めることだ。わたしは君の判断を尊重する」
それきり、ルイスはなにも言わなかった。だが、リートはもう心配していなかった。
喧嘩しても、自分の気持ちを相手に素直に言えばいい。相手との関係を切りたくなければ、何度でも和解することは可能なはずだ。リートはそう信じたかった。
